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長宗我部氏

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  3. 2006/12/27 長宗我部氏な感じでその8。
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……('A`)

戦国無双2猛将伝に長宗我部元親、ついに参戦

キタ━(゚∀゚)━……?

( ゚д゚)

(;゚Д゚)

( ゚д゚ )

碇で海賊な某元親よりもはっちゃけたコイツは何なんですか……?
武器が三味線?どういう事ですか…orz

コー○ー自重しろ('A`)
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長宗我部氏な感じでその8。

ついに最終回。当初の予告と内容を変更してお送りします(`・ω・´)
……いやだって細かく分解しすぎたんだもん。

○死に逝く者の物語(Roman)○

1585年の時点で群雄としての長宗我部氏は滅亡してしまったも同然ですが、ここで一旦九州に目を向けてみます。

九州ではこの頃、薩摩の島津義久が九州統一の為に北伐を続けてました。アクアクの力でしょうか、エビス丸の力でしょうか(違います)

1586年になると、筑後の大友宗麟は秀吉に救援を依頼。これを受け、秀吉は中国・四国勢を九州の救援に向かわせることとなり、
元親・信親が3000の兵を率いて九州の地へ。

1586年秋、到着した四国のご一行様は大友宗麟と色々と今後について話し合った後、攻撃を受けていた鶴ヶ城の救援の為に戸次川に布陣し、軍議。

仙石秀久(主将)「敵は恐るるに足らず。一息に蹴散らそう(`・ω・´) 」
元親&十河存保(讃岐の大名)「待てやコラ」
仙石「何で?(#`・ω・) 」
十河「罠があるはずだ。少し落ち着け」
元親「絶対伏兵を潜ませている。敵の出方を見てから動いても遅くないだろう(#゚Д゚)」
仙石「意見を言わなかった多数のサイレントマジョリティを考慮にいれて決定させてもらいます。  一息に敵を蹴散らしますm9(`・ω・´)」
元親&十河「( ゚Д゚)ポカーン」


と言うやり取りがあったかは兎も角、四国勢は元親らの反対も空しく、川を渡って戦う事に決定。

12月、川を渡った四国の連合軍は島津軍を相手に戦い、勝っていましたが、実はこれが罠。

ジャーン
   ジャーン
      ジャーン

「「「げえっ、伏兵」」」

伏兵と大軍が一挙に四国連合軍を襲います。

仙石「後は任せたよ( `・ω・)ノ (退却)」
元親&十河「ゴ━━━━(# ゚Д゚)━━━━ルァ!!」

仙石軍は真っ先に退却、長宗我部軍と十河軍は分断されました。
十河軍は全滅し、十河存保は戦死。
長宗我部軍も奮戦しましたが多勢に無勢、事実上全滅。
嫡子長宗我部信親は信長から貰った二尺七寸左文字の太刀を振るい力闘するも戦死。
元親のみが辛うじて退却する事が出来ました。


翌年3月、今度は大軍を秀吉が率いて九州に出陣。今度ばかりはたまらず、島津は降伏。
秀吉は元親を慰める為に大隈を与えようとしましたがとてもじゃないがそんな精神状態じゃない元親はこれを断ります。

元親「(-_-)ウツダシノウ」

っていう状態だったらしいです。
信親は文武両道で周りからも将来を嘱望されていただけに、元親の落ち込み具合はハンパなかったわけです。


九州の話はこれにておしまい。
また土佐のお話へ。

1588年に元親は本拠を岡豊城から大高坂城へ移転します。まあ手狭だったりしたみただいですが。

さて、嫡男の信親亡き後、空いた嫡男の席をどうするかという問題がここで長宗我部家に降りかかりました。

この時健在だったのは次男の親和、三男の親忠、四男の盛親です。
元親は盛親を一番可愛がっていたので盛親に継がせようとしますが、まあお決まりの文句ってヤツで「長幼の序が~~」という反対論が噴出。
当然っちゃ当然です。
でも元親は継がせたくて仕方が無い。とうとう親和はそれを気に病み病死してしまいました。

この頃から元親の暴走スイッチが作動したみたいです。
元親は反対派を次々と粛清。1588年10月に三男の親忠は津野家を継いでいるから、と言う理由で盛親に跡を継がす事を正式に表明しました。


1590年の小田原征伐にも元親・盛親は水軍を率い参陣。
その後東北も秀吉になびき、天下は秀吉の下に統一し、元親たちは土佐へ戻っていきました。

翌年に元親は再び居城を浦戸城へ移転。

1592年。秀吉はついに海外へ目を向けます。
つまりは朝鮮出兵ですね。

長宗我部家からも3000の兵を率いて出陣。ですが、当初は楽でも次第に苦戦し、1593年6月に結局退却。


ちょっとの間に次々と面倒事が降り注ぐ長宗我部氏。
まだ降り注ぎます。

1596年。イスパニア船サン=フェリペ号が寄港。元親は秀吉の命により船を検査します。
すると船内にあった海図について、乗組員が酷い扱いをした国を奪うためだと説明した為、
荷物を抑えて乗組員の所持金を全額没収すると言うサン=フェリペ号事件が起きました。
これが秀吉のキリスト教弾圧の引き金になったとか。

1597年3月に、元親はかの有名な「長宗我部元親百箇条」を発布。
侍の心得やら産業やら交通・宗教・文化に至るまで色んな事を定めたとても有名な分国法です。

……というか、これしか教科書に載らない罠。

6月、再び朝鮮へ出征。ですが得る所無く翌年3月に帰国します。

1598年、豊臣秀吉が病死。天下は一時混乱します。そんな最中に……

1599年4月。
体調の思わしくない元親は京都・伏見で療養します。
ですが体調は一向に好転せず、5月19日にとうとう元親は61歳でこの世を去ります。
遺体は土佐の天甫寺山に葬られました。

激動の元親の生涯は、こうして幕を閉じたのです。


○地平線に沈む年代記○

後を継いだ盛親はこの時25歳。天下は混乱中。ここで動けば良かったんですが色々と引き継ぎ事務に追われて身動きが取れませんでした。

1600年。天下の混乱はついに天下分け目の戦へ発展しました。

世に言う関ヶ原の戦いです。

盛親は東西双方から協力を依頼され、中立になりたかったらしいですが、結局西軍に。
まああんま乗り気じゃない長宗我部軍は傍観するだけで戻っていきました。

土佐へ帰還した盛親は西軍についた事を家康に謝りますが、
謝る前に元親の後継者問題で仲がこじれていた兄の親忠を自殺させてしまいました。
これが家康の耳に入り、怒った家康によりとうとう土佐の地をを取り上げられました。

とうとう領地を失い、長宗我部家の勢力はこれにて滅亡してしまいました。

当主の盛親は京都へ行き、寺子屋の師匠として生計を立てることに。
ですが、まだこのままでは引き下がれなかったのです。

1614年から始まった最後の大戦・大坂の陣。
盛親は旧臣らと共に大坂城へ入城します。
冬の陣はともかく、夏の陣で盛親は藤堂高虎の軍勢を撃破するなど奮戦しましたが側面を井伊軍に突かれ敗走。

大坂城が陥落すると京都方面に落ち延びようとした盛親ですが、武運なく捕らえられてしまいました。

捕らえられた盛親は京都引き回しの末、1615年5月15日に六条河原で斬首されました。時に盛親は41歳。
盛親の息子達も斬首され、ついに長宗我部氏は滅亡してしまいました。南無三。



力量は確かに備えていたが、天運に見放されてしまった長宗我部氏。
何というか……惜しいです(´・ω・`)

さて、とうとうこの長宗我部氏シリーズもこれにて最終回。
お付き合いいただき、ありがとうございました。

おあとが宜しい様でこれにて。

長宗我部氏な感じでその7。

皆さん、覚えてる人はいるのでしょうか(汗)
3ヶ月以上止まってたんで、ようやく再開。

○猿と蝙蝠○

1585年。魔王・織田信長の実質的な後継者として天下にブイブイ言わせてた羽柴秀吉が3月に紀伊の雑賀衆を滅ぼします。

元親と秀吉は対立関係。
雑賀衆が滅びると確実に次の標的は元親になります。

ここで下手に抗う事は出来ないと、元親は秀吉に和睦を申し入れます。

元親の使者「和睦しましょ」
秀吉「和睦したけりゃ伊予と讃岐よこせ」
使者「(´・ω・`) 伊予ダケジャダメ?」
秀吉「(・∀・)カエレ!!」

残念ながら和睦交渉は決裂してしまいましたとさ。

1585年6月。

羽柴秀長(秀吉の実弟)を筆頭に、総勢11万の軍勢が四国に殺到。これに対し長宗我部元親は4万の軍勢でこれを迎撃します。

……圧倒的な国力差。元親は果たして跳ね返せるのか……?


○長宗我部元親の降伏○

殺到する羽柴軍。迎え撃つ長宗我部軍。

元親は熾烈な三方面作戦を強いられる事となります。
阿波に主力を、伊予・讃岐に防戦準備を、本陣を白地城に構え、出来る限りの抵抗をする布陣で臨みました。
兵装は圧倒的に長宗我部軍が不利ですが。

<伊予>
長宗我部軍VS毛利軍

長宗我部軍大将・金子元宅、高尾城で玉砕。
7月上旬までに伊予北部が陥落。

<讃岐>
長宗我部軍VS宇喜多軍

牟礼・高松を始めとした城が次々と陥落。
植田城に宇喜多軍が迫る。

元親は植田城を使った強襲作戦(植田城に宇喜多軍を当たらせ、その間に白地から本軍を出撃させて宇喜多軍を撃破)を立案しますが黒田孝高に看破されます。
黒田は、主力の居る阿波を先に落とす事で讃岐が自然と降伏するだろうと主張し、宇喜多軍は讃岐を無視して阿波へ。

<阿波>
長宗我部軍VS羽柴軍

羽柴秀長自ら率いる軍により木津城陥落。
長宗我部軍は主力をもって徹底抗戦。秀吉が出てこようとするが押しとどめられる。

阿波の防衛線・一宮城と岩倉城が包囲される。
一宮城は羽柴軍5万に対し、長宗我部軍は5000の兵で防戦。
地の利と士気の高さで長宗我部軍は粘ったものの、水を断たれて陥落。
一方の岩倉城も、黒田孝高の策略により陥落。

ついに本陣・白地城が攻撃されかねない状況になりました。

万事休して元親は家臣団の意見を容れ、8月、羽柴軍に降伏してしまいましたとさ。

降伏した元親は三男の津野親忠を人質にして秀吉に謁見し、土佐一国の領有を許されました。
ですが、長宗我部家の不幸はまだまだ続く……


今回はここまで。
次回は「長宗我部信親の最期」「長宗我部元親の豹変」「死に逝く者の物語(Roman)」「地平線に沈む年代記」
最終回だから拡大版。

長宗我部氏な感じでその6。

遅れてごめんなさい(陳謝)
大したモノじゃなくてごめんなさい(陳謝)


○Erlkoenig ~魔王~○

四国各地の残存勢力は恐れていました。
誰をって……元親を。

という事で、残存勢力(主に豪族)は元親でも敵わない様な超巨大な勢力――織田信長にに助けを求める事に。

魔王とだって手を組むさ!

ですがこの魔王、この時ちょっと大変だった。
何てったってまだ謙信も生きてて本願寺や毛利がしぶとかった頃。
すぐには魔王は雁字搦めに縛られる格好となって動けなかったんですね。

ところが。

1578年に謙信は逝き、80年には本願寺が屈し、その頃になると毛利もボロボロになってくると魔王を縛ってた鎖が緩くなってきます。

いよいよ魔王の魔手が四国へ。

81年、元親のもとに信長から、
「やっぱ土佐と阿波の南半分はあげるから他は諦めてくんない?」
といった書状が届きます。

当然元親は突っぱねます。
するといよいよ魔王は本格的に四国へ手を伸ばそうとし始めます。
まずは三好氏(阿波の豪族)がこれを受けてかつての臣下を集め始め戦力を強化。
長宗我部家阿波方面軍はこれで苦戦しちゃいます。

さらに。いよいよ本物が出てくる。

織田軍は堺に四国征伐軍を集結させ、準備万端。6月2日をXデーにする事まで決定済み。

時は1582年の事でした。そう、1582年6月2日。

いちごパンツの変態……もとい、明智光秀が本能寺の変を起こしたのは…この日。

四国征伐開始のカウントダウンがギリギリになったところで、魔王・織田信長は死を迎えました。

この本能寺の変により、四国征伐軍は空中分解。四国の豪族たちの後ろ盾も消滅し、元親は四国統一の絶好の機会を迎えます。



○長宗我部元親の絶頂期○

信長の死は天下に大きな影響を及ぼしました。
四国でも同様。

アンチ長宗我部の豪族たちの後ろ盾になっていた信長が死に、それが崩壊したことで、四国は混乱状態になっていました。

まあアレです、みんな豪族たちは、
「それでも信長なら……信長ならなんとかしてくれる……!!」と思ってたのに死んじゃったからびっくりしちゃったんですねw

この状態を好機とみた元親の嫡子・信親は阿波進撃を進言し、元親の「出過ぎるな!自重せよ!」の勧告もとりあえずスルーして進撃。
これを知った元親は、「若いから急ぐのも分かるけど率いられてる兵が疲れるぞ?」と伝え、信親は「そりゃそうだ」と思い戻りました。

みんな殺る気がみなぎっている事に気付いた元親は一同を集め大会議。

上層部は持久戦を主張。現場は速攻を主張。

結局、元親は速攻を採って阿波攻めを決意。


老若合わせて23000の兵を率いて二手に分かれて阿波へ殺到。中富川の戦いでも終始敵方を圧倒し、勝利。
その後も連勝し、まず阿波が併呑されました。

続いて讃岐。この頃、海の向こうでは羽柴秀吉と柴田勝家がドンパチし始めたので元親は勝家側に。
讃岐の豪族たちはそれなら、という事で秀吉に助けを求め、秀吉は将を遣わしますが、元親はコレをあっさり撃退。

実はこの将が後々厄介な事になるとはだーれも知らなかった。

ちなみに秀吉の軍に元親は勝ちましたが、柴田勝家は敗れ去り消えてゆきました(´・ω:;.:...


讃岐で元親が暴れまわっていた頃。
勝家をシメた秀吉に警戒心むき出しな本当の信長の跡継ぎ・信雄は家康と手を組み秀吉と対決姿勢をとることになってました。
ですが、秀吉は信長の軍事力を受け継いで天下最強。兵力では織田・徳川連合軍では及びません。

ってな訳で、全国に味方を増やすべく協力を要請。

元親はコレに乗り(中央進出の足がかりになると判断)ましたが、いかんせん四国内は動乱の最中。とてもじゃないが兵は出せない。

でも何とかしたい。という事で急ぎます。

まず讃岐を併呑。よしラストは伊予だ、といきたくてもやれ阿波でアンチが暴れるし、伊予攻めをしてた軍は苦戦するし…と捗らず。

結局なかなか四国から出る事が出来ませんでした。
それでも元親は頑張って20000の兵を出撃させるようにはしましたが、時既に遅し。羽柴と徳川で講和が成立してしまいました。

あーあ。

それでも元親は四国を攻める。攻める。全ては統一の為に。


伊予はまだ毛利が後ろ盾になっているので他よりもちょっと難航気味。
それでも勢いは止める事はできず。

伊予各地の豪族は降伏し、最後まで粘った河野氏も降伏。

1585年。

ついに長宗我部元親は四国を統一。家督相続から25年目のことでした。


思えばこの時が元親の……長宗我部氏の絶頂期でした。


今回はここまで。次回、「猿と蝙蝠」「長宗我部元親の降伏」

長宗我部氏な感じでその5。

今日も今日とて長宗我部。遅れてごめんなさい(汗)


○長宗我部元親の憤慨○

元親の弟に島親益(しまちかます)という人が居ます。この人、武勇に優れていたようですが、病を得てしまい(結核らしい)、
有馬の地に湯治に出かける事になりました。

出かけたは良いですが、道中で嵐が発生。やむなく一行は阿波の南部、海部郡に立ち寄る事にします。

ところが……

阿波の地にはかつて元親が滅ぼした安芸氏の残党が転がり込んできていました。
こいつらが海部郡の城主・海部宗寿をそそのかし、軍勢を催させ、親益の一行を襲いました。

やんぬるかな、多勢に無勢の中、親益をはじめ従者30人は討死してしまいました。


この事を元親が知った時、元親は烈火のごとく怒り、阿波侵攻を決意します。

元親は軍を整え、海部に侵攻。相手は烏合の衆だったのでたちまちのうちに瓦解し降伏しました。



○長宗我部元親の躍進○


阿波南部を手に入れた元親。こっから怒涛の如く攻め込みます。
まずは阿波西部で四国の中央に位置する白地城。
ここの城主を元親は計略で丸め込んで降伏させ、城ゲット。
すったもんだもあったんですが結局この地は元親の手に。

阿波国内で2つの拠点を手に入れた元親は2方面作戦で阿波を併呑しようとします。
長宗我部軍は連戦連勝、1579年までに阿波のほとんどが彼の手に落ちました。


同じ頃、元親の目は阿波のみならず讃岐にも向いていました。
手始めに国境近くの藤目城を降伏させ、その後もうちょい奥の雨霧城も計略で降伏させた後、讃岐中部を武力制圧。
一気に讃岐の西半分は長宗我部氏のものに。

更に伊予。ここでも長宗我部氏が破竹の勢いで攻めるかと思いきや。
伊予中部を支配する河野氏は中国の雄・毛利氏と同盟中。なので、コイツを敵に回すと毛利が攻めてくるというあんまり宜しくない状況に。

今毛利と戦うのは得策じゃない。

元親は河野氏には手を出すことを禁じてそのほかの地域を落とす事に。
ですが、周りがどんどん長宗我部領になっていく事にビビり始めた河野氏は毛利氏に援軍を依頼。
結果、長宗我部氏と毛利氏は戦端を開く事になっちゃいました。

ただ、伊予攻めの司令官が独断で毛利と和睦したので本格的な衝突は避けられました。

その後、毛利氏が織田軍で手一杯になったのを見計らって再び伊予攻めを再開。(1579年)
ですが、この時は敵将・土居清良にまんまとしてやられ、あえなく撤退。

翌年にももう一度攻め込みましたがはかばかしい戦果は挙げられず、伊予方面はgdgdになりつつありました。

……さながら、泥沼の東部戦線。っていうかマジで長宗我部氏にとって泥沼の東部戦線だ(爆)

でも本当に大変なのはこれからでした。

…………

………

……

今回はここまで。次回、「Erlkoenig」「長宗我部元親の絶頂期」

長宗我部氏な感じでその4。

世間ではコミケ3日目ですが(ごく一部だ)、気にせず長宗我部氏。


○長宗我部元親の陰謀②○

無事、おじいちゃんの仇を滅ぼした元親。土佐に残るのはかつてお世話になった一条氏のみ。
元親は悩みます。恩を仇で返すような事をしたら天罰が下るんじゃないかと。
しかし、元親の弟の吉良親貞(きらちかさだ)が励ましたのでついに吹っ切れる元親。

この時、一条家の当主は一条兼定。

英明な君主……ではなく、酒色に溺れるボンクラでした。おまけに諫言した臣下を手打ちにする様な度量。

滅亡フラグ成立w

そして臣下の間でも不穏な雰囲気。

ここを元親が見逃さなかった。
元親は思う存分に家臣団の兼定に対する不信感を煽りに煽る。

これが効いて、1574年、家臣団は兼定を追放。

そして新当主の後見人に元親が。

傀儡決定w


さて、追放されたボンクラこと一条兼定は意外にしぶとく、1575年、兵を率いて侵入。

渡川にて兼定率いる3500の兵と元親の7000の兵が激突。

元親の陽動作戦が図に当たり、快勝しました。


そして、1575年、ついに元親は土佐を統一。家督を継いでから15年後の話でした。



○鳥無き島の蝙蝠と第六天魔王○

元親が土佐を統一した頃。四国の外では何が起こってたでしょうか。ちょいとその辺を見てみますw

中国・九州方面
もう元親が統一した頃、中国の雄・毛利元就は既に死んでます、要注意。(毛利元就は1573年、75歳で死去)
なので当時は元就の孫である毛利輝元が当主になってます。
九州は竜造寺とか大友とか島津とかがブイブイ言わせてますw

近畿・東海方面
織田信長ががっちり抑えてます。
丁度同じ年、長篠の戦いがありました。

関東甲信越方面
武田信玄は1573年にこの世を去り、武田勝頼が跡を継いでます。
あ、この頃真田昌幸が家督を相続しました。
上杉謙信はまだギリギリ健在。もうすぐ死んじゃいますが。(1578年死去)
北条氏政が関東で頑張ってます。

東北方面
伊達輝宗が奥州にいます。まだ混沌。
ちなみに片倉小十郎が伊達政宗に仕えたのはこの年。当時、政宗は9歳とか10歳とかその辺。


何か紹介してる奴らが偏ってるのは仕方ないんです。周囲がそういう事情ですからw


さて。四国方面。
ぶっちゃけ土佐以外の三国はまともに統一されてません。混乱状態です。
やるなら今のうち。統一には絶好の機会ですw

という訳で。元親は当時最大の勢力である織田信長のもとに、「四国は統一しちゃうけどウチと喧嘩しないでね」という使者を送る事にしました。

ちなみに。元親と信長。直接はつながりが無いんですが、実は、

元親の奥さんは明智光秀のいとこ(斎藤利三)の妹。
なお、斎藤利三の娘は徳川家光の乳母・春日局ですw

そんな関係があったんで、元親は光秀経由で信長と交渉。
交渉は成功し、一応元親と信長は同盟関係。更に、元親の嫡子の烏帽子親に信長がなり、元親の嫡子は信長の「信」の字をもらって長宗我部信親と名乗る事になりました。

ここまで書くと、何かとっても元親と信長が仲良しこよし【推奨イメージ(おい):BASARA】に聞こえますが、信長は元親に対してこんな評価を下してます。

「鳥なき島の蝙蝠」と。
意味は簡単。「お山の大将」って事です。

まぁそんな裏話もありましたが、とりあえず四国統一のお墨付きを得る事に成功した元親。いよいよ動き出します。

…………

………

……

今回はここまで。次回、「長宗我部元親の憤慨」「長宗我部元親の躍進」

長宗我部氏な感じでその3。

ういうい。第3回目ですw


○長宗我部元親の家督継承○

長浜の合戦で華々しい初陣を果たした元親。長宗我部家の未来も華々しい様に見えました。

が。

勝ちに乗じて国親は軍を進め、本山家の当主・本山茂辰の篭る浦戸城を包囲。
兵糧攻めの構えで臨んでいました。
ところが、ここでトラブル勃発。

国親、病に倒れる――

総大将が病に倒れてしまったので、泣く泣く長宗我部軍は退却。
岡豊城に戻って国親は病の回復に努めましたが、残念な事に国親は北斗に魅入られてしまった様です。

1560年6月15日、長宗我部国親死去。享年57歳。

臨終に際して国親は嫡子、元親を呼び寄せ、必ず本山氏を打倒するように、と遺言を遺しました。

家督を継いだ元親は22歳。
元親は父の喪に服し、その後改めて本山氏攻撃を再開。苛烈に攻め立て、1568年、ついに本山氏を降伏させました。


○長宗我部元親の陰謀①○

跡を継いだ元親。残るおじいちゃんの仇は安芸氏のみ。

殺っちまえ。

元々領土の小競り合いだなんだで関係は険悪です。
だけどまだ攻めるには口実がちょっと足りない。

そこで元親は考えた。

1569年4月のある日。安芸氏当主・安芸国虎の元に元親からの使者が来ました。

安芸国虎「何の様?」
使者「『ここらでさ、僕たちも仲直りしない?ってな訳で岡豊城で一緒にお話したいんだけど、来てくれない?』とのウチの殿からの言葉です」
国虎「ねぇ、知ってる?」
使者「??」
国虎「敵対してるのに相手方の城に来いってのは俺に降伏汁!って事か?ふざけんな!ヽ(`Д´)ノカエレ!」
使者「(´・ω・`) 」

国虎は激怒し、使者を追い返してしまいました。これがいけなかった。

元親「(・∀・)ニヤニヤ」

元親に安芸氏攻撃の口実が出来てしまいました。

元親は早速安芸氏の本拠地・安芸城へ7000の兵で進軍。安芸氏も黙って見過ごすわけが無く、国虎自ら5000の兵を率いて迎撃。時に1569年の7月の事でした。

両軍は八流(やながれ)の地で激突。

八流の地は山と海とに挟まれた細い地形です。

さて。

元親はここで正面から全兵力で安芸軍の兵を破ろうとしたでしょうか?



答えは否。元親は部隊を二手に分かれさせ、もう一隊には山を登らせて直接安芸城を攻撃させました。
ビビる安芸軍。

「背後に回られたぁ!?Σ(´д`ノ)ノ 」

浮き足立ってそのまま安芸軍は安芸城へ退却。

滅亡フラグ、成立。

結果、前後から攻められて、安芸氏は降伏。国虎は自害。

元親はついにおじいちゃんの仇を討つことに成功しました。

…………

………

……

今回はここまで。次回、「長宗我部元親の陰謀②」「鳥無き島の蝙蝠と第六天魔王」

長宗我部氏な感じでその2。

うい。第2回です。


○長宗我部国親の逆襲○

逆襲に燃える国親。まずはかつて家を滅ぼした仇敵の1人、山田氏にその牙を向けました。

これが意外とあっさり終了。哀れ山田氏は滅亡。(1549年)
さらに国親は隣国の香宗我部氏に息子を送り込み、香宗我部氏を乗っ取って(1556年)、勢力を拡大。

残るは安芸氏と本山氏。

1555年。本山氏では当主の本山茂宗が死去。

コレを国親は見逃さず、本山氏に対し攻撃を開始。

国親は次々と本山氏の城を陥落させ、1560年、長浜の地で本山氏と長宗我部氏の決戦が繰り広げられる事になります。


○長宗我部元親の初陣○

国親はこの長浜の決戦に自らの嫡子、元親を参戦させました。
長宗我部元親。1539年に生まれ、幼名は弥三郎。
つまり、この時22歳。
意外と初陣の年齢が遅い(22歳)のには理由があります。

元親は生まれつき色白で、背が高く大人しい性格だったのです。海賊とか海の男とは無縁な幼年時代です。

そんな元親を家臣は影で揶揄します。

「姫若子(ひめわこ)」――つまり、姫の様にか弱い若君、と。

流石にそんな嫡子の事を国親が心配しないわけが無く、ここに至る、というわけです。

そして時を戻して長浜の決戦へ。
出陣前、いよいよ初陣という元親はこんな事を家臣に聞いてました。

元親「槍の使い方ってこうですか?わかりません><」
家臣「!!Σ(゚Д゚)」


槍の使い方を知らなかった元親。大丈夫なのか?と本気で心配する家臣。
それでも決戦は始まります。

本山氏が率いるのは2500。対して長宗我部氏は僅かに1000。

両軍は激突します。そして開戦直後、予想外の事態が。

槍の使い方も満足に知らなかった元親が槍を持って馬に飛び乗ったかと思うと、立った一騎で敵に突撃開始。


兵卒「報告!若君が単騎で敵方に突撃しました!!」
一同「な、なんだってーっ!?」


1人突撃していった元親に、ビックリした長宗我部勢。ですが同時にコレは味方に対しての鼓舞にもなりました。

若君に続け!と長宗我部勢は一斉に突撃を開始。見事に本山勢を打ち破ってしまいました。

この戦いがあってから、元親は「土佐の出来人」とあだ名され、信望を得るようになったとさ。

…………

………

……

今回はこれにて。次回・「長宗我部元親の家督継承」「長宗我部元親の陰謀①」

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